契約から押韻へ菅原文

偶然性の核心的意味は「甲は甲である」という同一律の必然性を否定する甲と乙との邂逅である。我々は偶然性を定義して「独立なる二元の邂逅」ということができるであろう。

九鬼周造『偶然性の問題』

われわれはみな、何らかの意味でパラサイトである。

星野太『食客論』

いまわれわれは、コミュニケーションの様式においてある種不可逆的ともいえる変容を経験している。批評家・哲学者の福尾匠は近著においてこの変容を捉え、それを置き配的な状況と名指した(*1)。配達員と受取人が荷物の手渡しにともなう直接的な接触を回避し、玄関先に置かれた箱の写真というメタデータの即時的な共有によって配達を完了とするシステム。福尾によれば、これは物流の末端にとどまらず、われわれの言論空間や社会秩序そのものを統御するパラダイムである。

SNSにおける果てしない抗争を想起しよう。そこでは発話の固有なコンテクストやメッセージの内実が捨象され、発話者が保守かリベラルか、いかなる界隈に属しているかというポジションの確認が優先される。他者のことばを安全圏からスクリーンショットに撮り、カルトや信者としてメタ的に告発することで、みずからの実存のリアリティをかろうじて担保する。この置き配的なコミュニケーション空間において、他者は自己のアイデンティティをおびやかす不気味なゾンビか、排除されるべきシュミット的な「敵」のいずれかに分類されてしまう(*2)

こうした現況は、近代社会を支えてきた契約(コントラクト)のモデルが極限まで推進されたことによる機能不全であるといえるだろう。ホッブズやルソーの社会契約論から、現代のハーバーマスによる熟議民主主義、あるいはロールズの「重なり合う合意」にいたるまで、近代政治哲学は理性的合意を共同体の基礎に据えてきた。契約とは本質的に意味=ロゴスの共有である。異なる価値観を持つ者どうしが、それでも共通のルールや目的を了解しあうことで、流血を避けて平和的な共同体を維持する。これが近代法理論の構築してきた防波堤であった。

しかし、この意味論的次元での共有を前提とするモデルは、逆にいえば、意味を共有できない他者にたいしてきわめて脆弱であり、暴力的ですらある。置き配化した社会が露呈させたのは、イデオロギーや正しさの同一性を過剰に要求するがゆえに、そこからわずかでも逸脱するものを徹底的に排除しようとする不寛容さである。法の包摂からこぼれ落ちる存在、すなわち国境を越える難民や移民、非正規のギグワーカー、あるいはたんに「話の通じない隣人」との共在は、意味と目的の共有を至上命題とする契約の論理だけでは、もはや維持しきれなくなっている。

では、論理や意味を共有できない法の外部にいる他者を、われわれはどのように捉えるべきか。星野太は『食客論』において、キケロの『義務論』を引きあいに出しながら、近代法共同体が他者を排除する構造をあざやかに剔抉している。

キケロによれば、人間の共同体は義務(ムヌス)を分かちあうことによって成り立つ。たとえ交戦状態にある敵であっても、信義にもとづく約束は守られねばならない。敵もまた理性とことばを共有する人間だからである。しかし、キケロはこの人類の広大なる絆からたったひとつの例外を設けた。それが海賊である。海賊は万人共通の敵であり、彼らといかなる誓約も交わしてはならないとされる。星野が指摘するように、海賊が排除される理由は行為の残虐性にあるのではなく、彼らが国家に帰属せず法の適用外にいる法外な人間だからである(*3)

近代の法理論も同様に、このキケロ的な海賊の排除をひそかに継承している。しかし星野が注目するのは、絶対的な外部にいる海賊ではなく、われわれのすぐ傍らにひそむ中間的な他者である。それこそが「食客(パラサイト)」にほかならない。

食客とは、友でも敵でもなく、法の外部にいながらにして、主人の食卓にたまたま居合わせてしまう存在である。彼らは義務の円環には属さず、所有権や占有権といった法的な秩序をゆるがす。メルヴィルの小説に登場する代書人バートルビーがその典型であるように、この不気味な他者は宿主の秩序を決定的に変容させ、時に狂気へといたらしめる能動的かつ破壊的な潜勢力を持っている。食客との遭遇は、けっしてハートウォーミングな「共生」などではなく、自己の存立を根本からおびやかすノイズとの直面なのだ(*4)

この意味も目的も共有しない他者と、たまたまおなじ空間に居合わせてしまう事態。これを九鬼周造は『偶然性の問題』において「仮説的偶然」と呼称した。

積極的相対的偶然の積極性と相対性とは動的相対性として遭遇または邂逅の意味を収ってくる。(中略)偶然の核心的意味は「甲は甲である」という同一律の必然性を否定する甲と乙との邂逅である。我々は偶然性を定義して「独立なる二元の邂逅」ということができるであろう(*5)

なんの因果関係も目的もないのに、わたしと他者が〈ここ〉と〈いま〉においてばったりと出くわしてしまうこと。カール・シュミットは政治の核心を「友」か「敵」かという必然の対立へと還元したが、九鬼の世界観はそれに与しない。それは、法的な契約も、殺しあう必然性もないままに、たまたま出会ってしまった不気味な他者とどう向きあうかという、別口の発想なのである。

われわれは、この不気味で暴力的な可能性すらはらむ偶然の邂逅に耐えきれず、意味の同一性のみで構築された置き配的な安全圏に閉じこもろうとしている。しかし現実の社会はすでに、法や契約の網の目をすり抜ける食客たちで溢れかえっている。

意味による合意が機能しない、あるいは届かない領域において、われわれはいかにして新たな社会性を構築しうるのか。

ここで九鬼周造が晩年に展開した「押韻論」を召喚してみたい。一見すると詩学や美学の領分にみえるこの議論のなかに、近代政治哲学の限界を突破しうる新しい社会存在論がひそんでいるからだ。

1930年代、自由詩が全盛を誇っていた日本詩壇において、九鬼はあえて定型と押韻の意義を強く主張した。九鬼にとって韻を踏むということは、意味(ロゴス)の次元においてはまったく無関係であるふたつの言葉が、音響という物質的な次元において偶然に共鳴してしまうという、存在論的な事態であった。

語と語との間の音韻上の一致を、双子相互間の偶然的関係に比較しているのである。(中略)偶然性を音と音との目くばせ、言葉と言葉の行きずりとして詩の形式の中に取入れることは、生の鼓動を詩に象徴化することを意味している(*6)

九鬼はここで、フランスの詩人ポール・ヴァレリーの言葉を引きながら、押韻を「双子の微笑」になぞらえ、「音と音の目くばせ、言葉と言葉の行きずり」と呼んでいる。合田正人が指摘するように、この点は、九鬼の偶然論においてひじょうに重要な部分である(*7)。すなわち、いっぽうがたほうを論理的に制約するわけではない独立したふたつの要素が、ただ音韻が同一であるという物質的・身体的な事実のみを足場にして、不意に出会ってしまうこと。押韻とはまさに、「独立なる二元の邂逅」としての仮説的偶然が、言語実践のなかで現勢化したものにほかならない。

近代の言語観において、ことばはもっぱら意味を伝達するための透明な道具=メディアとみなされてきた。しかし九鬼の押韻論は、ことばが意味の伝達を離れて、物質的な音の響きあいとして他者と「行きずり」の関係を結んでしまう事態をことほいでいる。契約の論理が「言葉の意味の共有」を前提とするならば、押韻の論理は「意味の切断と、物質的な共鳴」によって駆動されるのである。

この押韻の論理を、詩学の枠組みから解放し、人間どうしの関係性へと拡張してみよう。われわれはこれを「社会契約(Social Contract)」に対峙する概念として、「社会押韻(Social Rhyme)」と名指すことができる。

社会契約は、ひとびとが共通の目的やルール(意味)に合意することによって共同体を形成する。しかし、すでに見たように、このモデルは意味を共有できない不気味な他者、すなわち法の外部にいる「食客」を排除せざるをえない。これにたいして社会押韻は、思想や目的の合意をいったん括弧に入れる。たまたまおなじ空間に居あわせ、おなじリズムを共有してしまったという、身体的・物質的な偶然の重なりだけを足場にして立ち上がる連帯の論理である。

偶然を成立せしめる二元的相対性は到るところに間主体性を開示することによって根源的社会性を構成する(*8)

九鬼は『偶然性の問題』において、偶然の邂逅が「根源的社会性」を構成すると論じている。宮野真生子が和辻哲郎との対比において示しているように、和辻の「間柄」が「教師である」「親である」といった社会的役割(意味)にもとづく安定したネットワークであるのにたいし、九鬼の社会性は役割を剥ぎとったあとの「私がいま・ここに・ある」という純粋な事実の偶然性から出発している(*9)

「私があなたであったかもしれず、あなたが私であったかもしれない」という離接的偶然(交換可能性)の自覚。それは、他者をまったく理解不能なノイズ=食客としたまま、ただ偶然の響きあいにおいて共在しようとする「前-契約的」な社会のあり方を示唆している。

われわれは、他者と意味を共有できなくとも、となりあっておなじ音を聞き、おなじ空気を吸うことができる。社会押韻とは、イデオロギーや正しさの同調圧力が息苦しいまでに充満した「置き配的社会」において、他者を排除も同化もせずに、ただ「行きずりの隣人」として傍らに居合わせることを可能にする、政治的なアルスなのである。

大石始という文筆家がいる。彼が自身の著作『盆踊りの戦後史』で描いた、多国籍団地の風景を、ここで紹介したい。

大石は、神奈川県にあるいちょう団地で開催される「いちょう団地祭り」について述べている。この団地は住民の約2割を外国人が占め、中国系やベトナム、カンボジアなど多様なルーツを持つ人々が暮らしている。

「多文化共生交流会」と銘打った二日目は、アジアのさまざまの国の踊りや歌が披露される。(中略)この日は「炭坑節」をみんなで踊る盆踊りタイムもある。踊りの輪のなかにカンボジア人が混ざったり、カンボジアのダンスに日本人が飛び入りしたりと、踊りを通して日本/カンボジアのコミュニティーが少しだけ混ざり合う(*10)

ことばもつうじず、法的な契約を結んでいるわけでもない「よそ者」たちが、ただ音楽のリズムに身体をあずけることで、事後的に共同の場を立ち上げている。要は、イデオロギーや目的を共有しなくとも、音響と身体の偶然の重なりによって、ひとびとは連帯できるのだ。

これが「社会押韻」の具体的なすがたにほかならない。

では、このような場において、われわれは他者とどのような距離をとるべきなのか?

他者と完全に分かりあおうと、全身全霊で同化をせまるのは、かえって危険である。ここで、三宅香帆が『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』で提唱した「半身」という態度が思い出される。三宅は、全身全霊でひとつの文脈(労働など)にコミットする危うさを指摘し、次のように語る。

半身で働けば、自分の文脈のうち、片方は仕事、片方はほかのものに使える。(中略)読書とは、「文脈」のなかで紡ぐものだ(*11)

つまり、自分のすべてをひとつの共同体やイデオロギーに投げだすのではなく、半分は自分の文脈とし、もう半分を他者や外部にあずけるということである。

これはまさに、九鬼周造が『「いき」の構造』で描いた美学につうじるものである。九鬼は、異性との関係における「いき」を「媚態」「意気地」「諦め」のみっつの契機から分析した。

「いき」の構造は「媚態」と「意気地」と「諦め」との三契機を示している。(中略)媚態と「諦め」との結合は、自由への帰依が運命によって強要され、可能性の措定が必然性によって規定されたことを意味している(*12)

他者と完全に融合してしまうこと(野暮)を拒み、一定の距離と緊張関係を保ちながら、相手にたいする執着をさらりとあきらめる。それこそが「いき」なのだ。

他者を不気味なノイズ=食客のまま受けいれ、自己の「半身」だけをリズムにあずける。これこそが、他者に喰われず、かつ他者を排除しないための技術ではないだろうか。

だが、ただリズムにゆられているだけでは、無責任な「観光客」と変わらない。

九鬼は、この偶然の出会いにたいして、倫理的な決断をせまる。小浜善信が論じているように、九鬼は仏典『浄土論』の一句に独特の解釈を与えている。

九鬼はしばしば仏典『浄土論』から「観仏本願力、遇無空過者」(仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者無し)という一句を引く。(中略)しかし九鬼はさらに「遇無空過者」を「遇勿空過者」(遇うて空しく過ぐる者勿れ)と言い換える(*13)

つまり、偶然の出会い(行きずりの邂逅)を、ただ無意味にやりすごすな、ということである。

偶然を必然へとみずから意味づけ、運命として引き受けること。

おなじリズムに乗った行きずりの隣人たちが、「なにかの縁」としてその場を引き受けるとき、そこには契約の手前に「根源的社会性」が事後的に立ちあらわれる。イデオロギーの共有をせまり、そこからこぼれ落ちる他者をゾンビ化してしまう現代の置き配的社会において、九鬼周造の哲学は、不気味な他者とともに生きるための「新しい公共空間」を設計する力を持っているのだ。

筆者について

菅原文
2000年千葉県生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。〈BUREAU〉主宰。